江戸の風情
あ だ ち 好 古 館
栃木県 栃木市 万(ヨロズ)町 4-2
TEL 0282-22-0149

外観 入口
概要
江戸時代末期より呉服類を手広く商う卸問屋に生まれた初代安達幸七が主に蒐集した浮世絵類、書画、彫刻、古美術品、仏像等を中心とし、なつかしい古民具類等、蔵に眠っていたものを展示公開したものです。
展示室は全室百年以上前(文久3年建設 等)の土蔵倉庫で外界としゃ断され静かに鑑賞できます。
つかの間、古き時代を偲んでいただければ幸いです。
館主
開館時間午前10:00 〜 午後5:00
開 館 日毎週 金・土・日曜日(祝祭日は開館)
入館料金大人400円 小中学生250円
(団体20名以上 大人350円 小中学生200円)
場  所"とちぎ山車会館"向かいのポケットパークに入って北側

4月の開館日 Exhibitions
Mo月 Tu火 We水 Th木 Fr金 Sa土 Su日
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30
休館日 Closed
5月の開館日 Exhibitions
Mo月 Tu火 We水 Th木 Fr金 Sa土 Su日
1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31
休館日 Closed
休館日でも5名以上の予約で入館できる場合があります。

周辺地図


1号室
歌舞伎絵 古民具等を展示
歌舞伎絵

江戸歌舞伎名場面錦絵
(豊国、国貞、芳年 他)


髪飾り、野がけ弁当、手あぶり、タバコ盆

2号室
浮世絵を展示


狩野常信
王親子虎狩之図
(金地着色六曲一双大屏風)


喜多川歌麿 筆
山姥と金太郎

3号室
東海道五十三次(版画)を展示
東海道五十三次 東海道五十三次
歌川(安藤)広重 筆
東海道五十三次(保永堂版 全55枚揃い)

4号室
有名人書を展示
書

頼山陽、大久保利通、勝海舟 書


乃木希典、鈴木貫太郎夫人 書

5号室
日本画を展示


河鍋暁斉、谷文晁 等


橋本雅邦 等

6号室
彫刻・甲冑 等を展示


甲冑、仏像 象牙の五重の塔 等


彫刻、写真画 等

7号室
古美術品 等を展示


インド渡来仏像、象牙細工 等


仏像、根付け、古代印鑑 等


---栃木市の観光案内---
栃木市街

★記念館共通券を発売中★
記念館共通券
あだち好古館400円4館で
⇒1500円
(小人900円)
岡田記念館800円
塚田歴史伝説館700円
とちぎ山車会館500円
通常の合計2400円
各館窓口で発売中


歌舞伎の豆知識
元禄年間(1688〜1704)に現在の様式が確立された歌舞伎(カブキ)は江戸庶民最大の娯楽であったのと同時にファッショントレンドの発信源でもありました。照明も音響設備もない時代ですから、役者達はきそって衣裳に工夫を凝らしたのです。
主要な役者の舞台衣裳は自前でしたので それらのファッションには歌舞伎役者の名前が付けられました。
そしてそれらを描いた役者絵や芝居絵が数多く出版され 今日まで残されているのです。
江戸三座というのは中村座、市村座、森田座のことで 年ごとに一年契約の役者と芝居作家を揃えて旧暦の11月1日に一座の顔見世狂言を行うのが決まりでした。このメンバーのまま演目だけを年に4〜5回変えるのが普通だったようです。内容も新鮮で滑稽で卑猥で残酷で お上が眉をひそめる程 熱狂的だったそうです。

東海道の豆知識
江戸幕府は大名の謀反(ムホン)を防ぐために「参勤交代」制度を導入しました。これは大名の妻子を江戸藩邸に人質にとり 大名自身も一年交代で江戸と国元を往復させるという制度です。
そのためもあって、東海道、中山道、奥州道中、日光道中、甲州道中の五街道は良く整備され、各所に関所、宿場、一里塚、松並木(杉並木)などが設置されることになります。
一方、江戸庶民の旅行はというと 意外なことにそのほとんどは農民の寺社詣(ジシャモウデ)(お伊勢参り)だったそうです。ですからその日程は春 田植え前の3月から5月(新暦)に集中していました。参勤交代の大名行列の時期も旧暦の4月(新暦の5月中旬〜6月上旬)と決まっていたようですから 当時の旅行業界自体が農民のアルバイトによって支えられていたのではないかと想像できます。

江戸時代の旅の豆知識
関所:江戸に向かう鉄砲、江戸から離れる女性を取り締まるための検問所。(箱根や荒井の関所が有名)
一里塚:街道の脇に4km毎に設けられた塚で、普通はその上に榎(エノキ)が植えられていました。
松並木(杉並木):日差しや風から旅人を守る目的で街道沿いに松や杉が植えられました。(15:吉原 26:日坂)
渡し舟:軍事上の理由で幕府が大河への架橋を禁じていたため 各地で渡し舟が活躍していました。(3:川崎 29:見附(ミツケ) 32:荒井)
川越し人足:同様に水深の浅い河では川越し人足が肩車や輦(レン)台で客を運んでいました。(10:小田原 18:興津(オキツ) 20:府中 24:島田 25:金谷)
留女(トメオンナ):宿場の繁栄は力ずくで旅人を旅籠(ハタゴ)に引きずり込む留女の双肩にかかっていました。旅人の荷物を引っ張るのがコツだったようです。(4:神奈川 36:御油(ゴユ))

広重の旅
徳川幕府は毎年2頭の馬を天皇に献上するのが慣わしでした。
東海道五十三次は 36歳の広重が天保3年(1832)夏の御馬献上の一行に加わった時のスケッチを元にして翌年出版されたものだそうです。
作品全体にそこはかとなく漂う旅愁は その季節が 旅人の集中する春ではないことに由来するのでしょう。そして その旅愁こそが東海道五十三次の魅力であり、江戸の人々に支持された最大の理由なのではないでしょうか。
そういう訳ですから、作品中に何度か登場する 大名行列 風の一行は幕府の 御馬献上 の一行と考えて良いようです。

東海道五十三次の舞台
江戸(エド)
1:日本橋 2:品川
相模(サガミ)
3:川崎六郷渡舟 4:神奈川 5:保土ヶ谷新町橋 6:戸塚元町 7:藤澤遊行寺 8:平塚 9:大磯 10:小田原酒匂川
駿河(スルガ)
11:箱根(関所で有名) 12:三島 13:沼津 14:原 15:吉原(白酒と肥後ずいき(サトイモの茎)が名物) 16:蒲原(カンバラ) 17:由井(ユイ)薩堆嶺 18:興津(オキツ)川 19:江尻 20:府中阿部川(きなこ餅が名物) 21:鞠子(マリコ)(とろろ汁が名物) 22:岡部宇津之山(串団子が名物) 23:藤枝 24:島田大井川駿河岸(川越し人足による徒(カチ)渡しで有名)
遠江(トウトウミ)
25:金谷大井川遠江岸 26:日坂(ニッサカ)佐夜ノ中山(わらび餅が名物) 27:掛川 28:袋井 29:見附(ミツケ)天竜川 30:浜松 31:舞坂 32:荒井(関所で有名) 33:白須賀汐見阪
三河(ミカワ)
34:二川(柏餅が名物) 35:吉田豊川橋 36:御油(ゴユ) 37:赤阪 38:藤川 39:岡崎矢矧之橋 40:池鯉鮒(チリュウ) 41:鳴海(染め物、有松絞りが名物) 42:宮
伊勢(イセ)
43:桑名 44:四日市三重川 45:石薬師寺 46:庄野 47:亀山 48:関
近江(オウミ)
49:阪之下筆捨嶺 50:土山 51:水口(ミナクチ) 52:石部目川ノ里 53:草津 54:大津(琵琶湖産のフナ(源五郎鮒)と災厄除けの大津絵が名物)
京師(ケイシ)
55:三条大橋

浮世絵版画の変遷
墨摺絵(スミズリエ):初期の浮世絵版画で墨一色で刷られた版画。
丹絵(タンエ):墨一色で刷られた版画に丹色(酸化鉛のオレンジ色)や藍色、黄色、草色を筆で着色したもの。(元禄〜正徳(1688〜1716))
紅絵(ベニエ):墨一色で刷られた版画に紅色や藍色、黄色、草色を筆で着色したもの。(享保〜寛保(1716〜1744))
漆絵(ウルシエ):墨に膠(ニカワ)を混ぜて光沢を持たせたり 銅紛や雲母をふりかけたりしたもの。(享保〜寛保(1716〜1744))
紅摺絵(ベニズリエ):墨版の上に2〜3色の色版を重ねたもの。この技術により安定した品質の浮世絵を大量に供給できるようになりました。(延亨〜宝暦(1744〜1764))
錦絵(ニシキエ):十数枚の色版を重ねて作る総天然色の浮世絵版画。絵暦(大の月と小の月を記したカレンダー)の流行と供に浮世絵はこの時期 飛躍的な進歩を遂げます。(明和2年(1765)〜)
空摺(カラズリ):版木に色を乗せずに摺圧で凸凹だけをつける技法。(明和2年(1765)〜)
松平定信の政治:腐敗した政治を浄化し 庶民の贅沢を禁止したこの時期には、遊女の錦絵や美人大首絵なども当然禁止されました。遊女の名前を絵記号に変換して絵の隅に表示する「判じ絵」や縦三枚継ぎの美人絵(上の版が実質的には美人大首絵となる)などの特殊な作法が確立したのもこの時期です。
雲母摺(キラズリ):雲母の粉を摺ることで大首絵の背景などに光沢を持たせる技法。(寛政4年(1792)〜)
藍摺(アイズリ):舶来のベロ藍を基調にした錦絵。発色の良いベロ藍の登場が当時行き詰まり感のあった浮世絵の世界に新しい風を吹き込みました。(文政12年(1829)〜)

浮世絵版画の製作
版下絵師(ハンシタエシ)(浮世絵師)が原画を描きます。
彫師(ホリシ)が、一枚の絵に対し 色別に十数枚の版木を作成します。
摺師(スリシ)が一枚の紙に色の違う版木を十数回重ね刷りすることで色鮮やかな浮世絵を完成させます。
大量に印刷した浮世絵を版元(ハンモト)(地本問屋)が地本屋(ジホンヤ)などを通して庶民に販売します。
※地本(ジホン):上方から入って来る下り絵本に対して地元で出版した絵本の意

浮世絵の絵の具
紅:紅花  丹:酸化鉛  朱:酸化水銀  紅殻(ベンガラ):酸化第二鉄(赤錆)
黄:鬱金(ウコン)草/海棠(ズミ)の木/雌黄(シオウ)の木  石黄:硫化砒素
藍:藍/露草  ベロリン藍:発色の良い舶来の鉱物顔料(文政12年(1829)〜)
白:炭酸カルシウム
緑色:黄と藍の掛け合わせ  紫色:紅と藍の掛け合わせ

有名な浮世絵師
菱川師宣(ヒシカワ・モロノブ)(?〜1694):版本の挿絵を “木版画” に昇格させた人物で いわゆる “浮世絵” の元祖。墨一色摺りの版画に丹色、藍色、黄色、草色などを筆で着色した “丹絵(タンエ)” の作品が多いようです。
鈴木春信(スズキ・ハルノブ)(1725〜1770):木版多色摺りの技法を飛躍的に進化させた人物で いわゆる “錦絵” の元祖。
喜多川歌麿(キタガワ・ウタマロ)(1753〜1806):美人大首絵(背景を描かない上半身像)というジャンルを築いて当時から人気抜群だった美人画の大御所。「婦人相学十躰」(寛政4年(1792)頃)「歌撰恋之部」(寛政5年(1793))などが有名です。
東洲斎写楽(トウシュウサイ・シャラク)(1762〜1820前後):大手版元の耗書堂 蔦屋重三郎が発掘、大抜擢した無名の新人で都座・桐座・河原崎座の歌舞伎役者の大首絵シリーズ(全28枚)(寛政6年(1794))が有名。過度に美化せず モデルの個性を大切にした彼の作品群は 皆同じ顔に見えてしまう浮世絵の中にあっては写実的であるとさえ言えます。明治以降 海外でその評価が高まるまでは残念ながら国内での人気は今一つだったようです。
葛飾北斎(カツシカ・ホクサイ)(1760〜1849):文政12年(1829)以降輸入されるようになったベロリン藍(ベルリン・ブルー)によって浮世絵の色彩は一変することになりますが、その先陣を務めたのが彼の作品群です。「冨嶽三十六景」(天保2年(1831))などが有名です。
渓斎英泉(ケイサイ・エイセン)(1791〜1848)独特な雰囲気の遊女の美人絵が異彩を放ちます。「浮世風俗美女競」(文政5年(1822))などが有名です。
安藤広重(アンドウ・ヒロシゲ)(1797〜1858):派手で陽気な浮世絵の中にあって一人異彩を放つ彼の “いやし系” の名所絵は当時から人気が高かったそうです。当時は歌川広重と呼ばれていましたが、近年では本名の安藤で呼ばれることの方が多いようです。「東海道五十三次」(東海道の宿場風景を描いた木版画集)(天保4年(1792))で有名な浮世絵末期の大御所です。

江戸庶民の柄 豆知識
幕府が華美な衣裳を取り締まったことから、江戸時代の衣裳は 縞、格子、小紋、裾模様に特化して発展しました。自動車もテレビも、休日さえもない時代ですから 余ったお金が衣裳に注がれる確率は今よりもずっと高かったようです。
七宝つなぎ
七宝つなぎ

三枡つなぎ
三枡(ミマス)つなぎ
歌舞伎役者 市川団十郎 のきまり模様である三枡の紋をつないだもので なぜか髷(マゲ)を結う前の男の子に人気の柄
ちなみに柿色は 市川団十郎 の色で、舞台の幕の黒、柿、萌黄(モエギ)の縞のうちの1色にもなっています
(※萌黄色:新緑の黄緑色)

麻の葉鹿の子
麻の葉絞り
(通常は紅色)
浅葱(アサギ)色の場合は特に半四郎鹿子と呼ばれ、当時は小さな娘からお婆ちゃんまでもが愛用したそうです
(※浅葱色:葱(ネギ)の若葉色という意味で藍(アイ)の一回染めの色)

貝絞り
貝絞り

松皮菱
松皮菱

滝縞
滝縞
太い筋から次第に細い筋に変化させた縞
江戸中期には 縞柄 = 意気 であったようで 大名縞(白3:色2の太縞)、千筋(細縞)、よろけ縞(波うった細縞)、三津五郎縞(3本縞と5本縞の組合せ)などなど縞柄には尋常でないこだわりを持っていたようです

卍つなぎ(紗綾(サヤ)形)その1
卍つなぎ(紗綾(サヤ)形)その1
江戸後期には襦袢(ジュバン)の掛襟(カケエリ)の定番に

卍つなぎ(紗綾(サヤ)形)その2
卍つなぎ(紗綾(サヤ)形)その2
江戸後期には襦袢(ジュバン)の掛襟(カケエリ)の定番に

その他、歌舞伎に関連したファッション
市松模様佐野川市松が中村座で使った袴(ハカマ)の柄で白の正方形と色付きの正方形を交互に並べた柄
半四郎鹿子女形(オヤマ)岩井半四郎が使った浅葱(アサギ)色の麻の葉絞り
亀蔵小紋市村亀蔵のトレードマークだった渦巻き模様の小紋
平十郎結び女形(オヤマ)の村山平十郎が考案した、片結びの輪を上に両端を揃えて下に垂らす帯の結び方

新暦と旧暦
旧暦では毎月1日が新月、15日が満月でした。
新聞やテレビのない時代には月の満ち欠けを基準にして日付を決めるのが最も合理的だったのです。
月の満ち欠けは 約29.5日 で一巡しますから ひと月が30日の大の月と 29日の小の月を作って遣り繰りしていました。
しかし 29.5日x 12か月= 354日ですから あと 11.25日足りません。
そこで約32.5か月に1度 閏月(ウルウヅキ) として同じ月を2回過ごしたそうです。3年に1度は13か月だったんですね。

ところで閏月がある年と無い年では季節と日付が最大で15日もズレてしまうことに気付かれたでしょうか?
今よりもはるかに季節を大切にした昔の人々がこれを黙って見過ごす筈はありません。
そこで昔の人々は月の満ち欠けを基準にした 日付 と同時に 太陽の高さを基準にした 24節季 なる暦も使っていました。
立春、雨水、啓蟄、春分、清明、穀雨、
立夏、小満、芒種、夏至、小暑、大暑、
立秋、処暑、白露、秋分、寒露、霜降、
立冬、小雪、大雪、冬至、小寒、大寒、がそれです。

旧暦では 睦月(ムツキ) の始めに 立春 を迎えたそうですから新暦の 1月 とは ひと月以上もズレていました。
しかしそれでは 皐月(サツキ) が6月中旬〜7月上旬ということになってしまいます。
江戸時代のサツキは6月中旬〜7月上旬に咲いていたのでしょうか?・・・と思ったら 皐月 の由来は 早苗月(サナエヅキ)、稲を植える月だそうです。
葉月 も9月中旬〜10月上旬ということになりますから青々とした緑の葉っぱを連想するのは間違いのようですね。


栃木県ホームページ
栃木市ホームページ
栃ナビ!
岡田記念館
とちぎ蔵の街美術館